昭和43年11月24日 朝のご理解


御信訓一つ、「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ。わが身は進徳の中に生かされてあり。

 わが身は進徳の中に生かされてありと。ここのところが分からせていただくようにならなければ、本当の信心生活はできません。ほんとうの幸せの営みとでももうしますか、は許されません。どうでもここんところを分からせてもらう、わが身は進徳の中にいかされてあるんだなと日日そこんところを実感させてもろうて、いくところにありがたい、もったいないという心が自ずとわいてくるのです。ここんところを一つ、どういうような信心にならせて頂けば頂けるか。なるほどほどここに疑いを離れて、誠の大道を開き見よとこういうておられるように、なかなか疑いはしない、ね、昨夜のお月次祭でのご理解のように、疑いはしないけれども、なかなかその真の大道を開き見ることができない。ね、どういうような信心をさせて頂いたら、真の大道、いわば天地の大道とでももうしましょうか、ね、天地につながる、まあ、幸せの道ともうしまょうかね、そういう道がわからない。

 疑いを離れて。これは日日こうしてお互いが信心のけいこをさせて頂いておりますと、神様はもうだんだん疑う余地がだんだんなくなってまいりますですね。とくにみなさん、合楽に通うてみえると、目の当たりに神様を見る思いがいたしますもんね。ね、おかげをうけておる、合楽、例えばお広前ならお広前、教会全体の動きというものがです、なるほど神様じゃなあということが感じられるでしょうが。ですからその疑う余地はだんだん少なくなってくるのですけれども、広き誠の大道を開き見るということはなかなか難しいのですね、それにはそれのはやはり精進努力がいるのです。いわゆるわが身は進徳の中に生かされてあるんだなあと、理屈を聞けばすぐわかる。けれども、なら実感としてです、とに神様のこういうお徳のなかに生かされてあるんだなという喜びがです、ね、伝わってくる、実感として伝わってくるおかげを頂いてこそ、はじめて日日がありがたくたのしゅう、ね、過ごしていけれる。いわゆる、真実人間の幸せの道というのが開かれてくるわけでございます。

 ですから、わが身は進徳の中に生かされてありということをね、心に感じる。ね、まあ体で感じる、いわゆる五体で感じる。ね、そこに心からいわゆる芯からの御礼ともうしましようかね、が生れてくる。金光様ありがとうございます、天地金乃神様ありがとうございます、親先生ありがとうございます、というようにです、心からありがたいとこう、お礼を申し上げるお礼の心といのがおのずと、自ずとわいてくる。そういうおかげを頂きたい。


 こんなことをもうしますね、「楽もかつがつ、苦もかつがつ」ということ。世間一般にいう言葉ですね。楽もかつがつ、苦もかつがつ。まあこれは、そのかつがつという意味は、これは非常に深いですね。これはあの、祝詞言葉の中にございます。みてがわり、かつがつながらもみてがわり、許したまいてというような、言葉が祝詞の中に出てまいりますね。おのりとの中に。かつがつながらもと、これはあの、曲がりなりにもという意味なんです。ね、本当のことはできませんけれども、ね、まあほそぼそながら、曲がりなりにもいわゆる、かつがつながらという意味、ね。楽もかつがつ、苦ももかつがつ。まあ素晴らしいそのこれは言葉だと思いますね。ここんところをですね、私どもが頂いてまいりますとです、わが身は進徳の中になるほど生かされてあるんだなというおかげを頂かれるのです。それを私共が、ね、苦をいとう、ね、曲がりなりにもでもそれをありがたくそれを頂いていこうとしない、その苦をいとう心、そして楽のほうは、今度はね、我先にそれを頂こうとする。まずはぶん、いうなら不相応な楽までも求めようとする。そして、楽になりたい、楽になりたいと、向こうのほうにある楽をです、こう、いつも追い求めておるような心になる。これでは楽もかつがつ、苦もかつがつにならんのです。一時でも早う楽になりたい、一時でも早く楽になりたい、と、その苦の味わいというものを味わわんなりに、楽のほうばかりを追いかけていくようなところからです、ね、その苦に対するところのいただき方、いうなら神様のご神意を踏みにじるような生きたかになるのです。

 かつがつながらもそれを頂いていく日日でなからなければならんということです。ね、そして不平をいう、不足をいう、ああ、いつになったなら楽になるじゃろうかと。これでは天地の親神様に不平不足をいうておるのですから、神様がお喜びくださるはずがない。楽もかがつ苦もかつがつ、それを一つ一つを実意丁寧神信心をもって頂いていくということ。

 疑いを離れて広き誠の大道を開き見よと、疑いを離れてとだんだん合楽におかげを頂いておるならばです、例えば一か月なら一か月参ってみるがいい。はあやっぱり神様はござるばい、ござるばのというようになるです。神様の働きを感じるようになる。疑いがだんだ薄れてくる。神様に対するいわゆる信の心、神様を信じる心がだんだんできてくる。ござるやらござらんやらわからんと思っておった神様がはっきりここにござるんだとわかってくる。ですからそれをですね、いよいよ育てていかにゃいけんのです。ね、その絶対の神様というところまで、これを頂いていかにゃいけんのです。それを絶対の神様として頂ききらん。ただ神様はござるなと、やっぱおかげちゃあるなと。やっぱ信ありゃ徳あるといったようなところからです、絶対信。もう世の中にはもう神様のしんあいに満ちあふれているのだと。世の中には氏子かわいいという神様の願いがいっぱいなのだと。それはば楽なこと、苦なことの中にそれを感じとることができる。

 そういう信心がわかるですね、だんだん。ですからその疑いを離れてというところを、いよいよ離れさせていただくためにです、いうなら現在頂いておる信心を、汚してはならん、
くずしてはならんということになるわけです。ね、ここまでは分かったのだと。絶対とまではいかんけれども、神様を疑う余地がなくなってくる。ね、だからそこからの神様をですね、いよいよ絶対信ぞというところまで高めていくためにです、今頂いておる信心をあったらくずすようなことがあってはならない、ね。そのせっかくの信心を、あったら汚してはならないということになるのです。ところがその信心をいつも汚したりくずしたりするところに、また初めからやり直しというようなことになるのです。いわゆるそれをどうどう回りの信心と申します。同じ程度のところをぐるぐるぐるぐる回ってるという、疑っちゃおらん、というて絶対信じてもおらん。ね、そういう信心が何十年繰り返されておってもやはり、いわゆる神徳の中に生かされありという喜びは実感としてわいてこない。


 
 二三日前でしたか、善道寺の原さんが、娘さんが縁についておりますところへ、ちょっと手伝いにきてくれというのでいかれた。その日帰ってくるはずだったのところが、向こうに都合があって一晩泊まってかえこられた。娘の話を聞いておりますと、娘はほんとうにそれを難儀なこととしておる。嫌なとこだと思っておる。早くそこか脱却しようというあせりを感ずる。ところがお母さん、原さんがそれを聞くと、それは千恵子さん、それはあんたおかげじゃないねち、そげなんお礼をもうしあげなんことばそげなん不足ばかりいってからちいうことばっかりだったというのです。ね、そこに同じ事柄にいたいする見方というものが違う、感じ方がちがう感度が。娘は難儀なことと思っておる。お母さんは、それを話を聞けば、理屈を聞けばおかあさん、ほんなことそうねということになる。ね、ある難儀な問題に対してもです、いわゆる娘の決断がついたとこういうのである。ほんとそげんの、お母さんということになってきた。だからそれまでは娘さん千恵子さんの場合は、難儀なことだ難儀なことだとこう思うておった。ところがお母さんがいって話を詳しく聞かせてもらうと、どこを見ても、どこを感じても千恵子さん、神様のお働きを頂いておると思わにゃおられんじゃないの、こんなおかげの中にあってということになったきた。一晩泊まってあくる日かえらせて頂いて、帰らせていただく電車の中で、ちょうりど小学校の、まあ四年生くらいがみんなとやどやと乗ってきたから、あんたたちは何年生ねて聞いたら四年生というた、もうそれこそぴちぴちとしてその電車にのりこんでくる子供たちをみよったら、訳もわからず感動した。訳もないのに喜びがわいてきた。心のそこから神様ありがとうございますと連発である。よその小学校の子供が電車に乗り込んできたことが、何で原さんの心の中に、そうした喜びが、そういう感動がおきてくるのかと。




 とりわけて原さん一家がとりわけ楽なことばっかり続いておるということじゃない。信心をされるようになって、もう二十年近く、ここが樺目が始まって以来ですから、さまざまな難儀があった。たった一人息子のしょう一ろうさんが、死ぬか生きるかというような大病にあい。お商売のほうも毎日忙しゅう働いておるけれども、やはり節季節季には赤字であった。ところが信心をさせて頂くようになったら、その生か死かといわれるほどのしょういちろうさんの病気が、もう健康そのものにおかげをいただき、嫁ももらい孫もできるというような、おかげを頂き、三人の娘たちもそれぞれに縁につき、そまざまな物入りもあるけれども、物入りのときには物入りのときなりに、例えば娘が縁につくといったようなときでも、原さんがたはそげん仕事もありよるふうじゃなかけれども、そげん繁盛しよるようにみえんけれども、いつのまにこげん用意ができとったじゃろうかと近所のものがして、言わせるおかげを頂いて。考えてみればみるほどに、そんときそんときにちゃんとお繰り合わせが頂かれておられるということ。ね、商売が大繁盛しとる、金光様の信心をしござるけんと目立つようないうことはないけれどもです、むしろかえって商売は少なくなったような感じ、お洋服やさんですから少なくなったような感じだけれどもです、盆正月にきちっといつも払えんといったようなこともなし、バサラか残るとうこともないけれどもです、おかげを頂いておる。
 考えてみれば考えてみるほどこの十いく年間、二十年近く、もうほんとうに家くらいおかげを頂いているところはなかろうと思いくらいに感じておる。私も聞いて、ほんと原さん、あんたげが一番おかげをいただいとるばいというたことでした。


 そしてなら合楽にはです、原さんほどのおかげを受けておるひとたちがたくさんあるということ。改めて先日この話をしたら、はあ、ほんに原さんだけじゃなく、私のほうこそこげなおかげを頂いておるというようなひとたちが、その特別な大繁盛のおかげを頂かなければおかけじゃないような思い方をしておるところからです、ね、おかげをおかげと感じとりきっていないということ。そしていつまでたったっちゃおかげを頂ききらんといったような、それこそ今日の中村さんじゃないけれども、神様からまあだおかげを頂きたらんごと思うとるというお言葉を頂いたということですけれども、ね、いつもおかげを頂ききらんごたる気持ちでです、ね、いつも食べたらんごたる気持ちでです、ちょうどよいくらいに頂いておるにもかかわらず、そう感じているる思い方ではあいすまんことだと。私はその一番の原因は、もちろんここ丸十八年か十九年になりますかね、その間を夫婦の方が日参の徳をつんでおるということ。おひ参りの徳をつんでいるということ。しょういちろうさんの病気以来、これこそ一日も欠かさずもちろんよそにいっとときはできませんけれども、しかもそれが一家をあげてということになり、親戚をあげてということになり、もう本当に原さんのご主人のご親戚のかたであろかが原さんの奥さんのご親戚の方であろがみんなここに御縁を頂いておられますね。それが熱心な信心をしておるというわけでないけれども、何かあるとあいらくにお伺いにくる、お参りにくるとように、御深遠がだんだん密なものになっていきよる。ならそううう信心がです、おひ参りの信心のお徳が、何を原さんに教えていったかというとです、何が身についてきたかというと、楽もかつがつ、苦もかつがつという信心がほんとうに分かっていきよんなさるという感じです。


 自分で求めて着物をつくろうとも思わない。自分で求めておいしいものを食べようとも思わない。人が物見にいきよんなさるけん、ああ行きたいなと思わない。自分はもう神様へ向けたが一番というふうに、信心がだんだんなっていきよる。子供たちがお母さん着物ば一枚つくりなさい、お父さんどごとこへ旅費は私がおかげを頂くけんいきなさい、その時には楽もかつがつである。そうね、そりゃもったいなかばってんなら頂こう、いやもったいなかばってんやらせて頂こう、いわゆる楽もかつがつである。同時に苦もかつがつである。かつがつというのは今日ここではかつがながらという意味です。ね、曲がりなりにも、厳密にいえばです、ね、場合のの時にははああそこは信心もしござらんとにあげん商売が繁盛しよんなさると思うこともあんなさろうけれども、いやいやそうじゃない、そうじゃない、私たちはこういうありがたいものを身に着けていきよるんだとふうに思いなおし思い替えをさせて頂きながら、ありがたい道をひたすらこうあゆませて頂いておるということなんです。

 ね、楽もかつがつ苦もかつがつそういう信心がかつがながらも十何年間続けられていくというときにです、千恵子さん考えてごらん、おかげじゃないのと、どういうときでもおかげじゃないのといい、またそれを分からせられる、何にもないこと、訳もないことにです、いつも感動がわいてくる。いよいよわが身は進徳の中に生かされてあるんだ、親先生の祈りの圏内でおこっておることだ、親先生の祈りのなかに、こうやって原一家がおかげを受けておるんだという実感が、いつも原さんの心のなかにじわじわするような思いで、ね、そういう喜びが心の中からいわゆるじわじわわいてくる。



 今朝私、御神前に出らせて頂いてから、ただ今みなさんに聞いて頂いたようなことの、きっかけになるお知らせを頂いた。というのはね、あの今は使いませんけれども、昔はあの箱、箱枕というですかね、日本髪なんかをを結う人なんかが必ず使った枕がありますよね、木でつくった、こうきれがこうついてますよね。小さい枕が。はあこの枕をすればね、髪をいうておっても、昔は男でも髪をいうておったからその枕をつかっておったわけなんですね。この枕を使えばです、神をくずすことがないのです。私がみなさんに今日分かって頂きたいというのは、せっかく絶対信とまではいかないけれども、神様をうたがわんですむだけの信心は今日こうして頂いておる。だからこの信心をくすさずに、育てていかなければならない。とこがわたしともはですね、その楽もかつがつ苦もかつがつという信心が身につかないところに、いつもせっかくの信心をくずしくずししながら、また結いなおし、結いなおしといったようなところを通っておるように思う。ね、信心をくずさん、神ね、神というのは神様につうじる、、神をくずさんですむところの枕、枕とはね、真の苦楽とかいてある。本当の苦楽。真は信。苦は苦労の苦。らは合楽の楽という字。これを信苦楽と読むのです。ね、信の苦楽。まことのくらく。この楽もかつがつ、苦もかつがつ、かつがつながらという日日の信心がです、信心をくずさんですむ。くずさんから、その信心は必ず育っていく。そこからです、ね、なるほど、わが身は進徳の中に生かされてあるんだという実感です。わが身は進徳の中に生かされてあるという、信心の喜びがです、じわじわ自分の心の中にわいてくるように頂ける。初めてわが身は進徳の中に生かされておるという、喜びの生活ができる。

 神をくずさんですむまくら。いわゆる信のくらくと。苦もかつがつなら楽もかつがつ。いわゆるかつがつながらも、まがりなりにも場合には不足のでるようなこともあろうけれども、そこを思いなおし、思いなおし、そうじゃない、そうじゃない、神様のおかげを頂いてとこういうような頂き方をしながら、信の苦楽を頂いていくところの、信心をせて頂いていくところにです、いうならば、みやすうわが身は進徳の中に生かされておる喜びに浸らせて頂ける信心がそだっていく。そういうおかげを頂いていきたいと思うのでございます。

 疑いをはなれて、広きまことの大道をひらきみよ、わが身は進徳の中に生かされてある。わが身は進徳の中に生かされてありという喜びを、じかに感じさせて頂けるような信心、そういう信心をいよいよみにつけたい。教祖様はそういういわば実践者の第一人者でおありになった。ね、そこに限りなく天地との交流、天地とのつながりが密なもの、濃ゆいものになってくる、そこからいよいよその楽もかつがつ、苦もかつがつという、かつかつながらというものが本当なものになっていけばいくほとにです、このようなおかげを頂いてよかろうかと、これは信心がないものがみても、なるほど信心をしよりゃ、ほんとなものにのなってくるということを思うのです、どうぞ。